Nostalgic中四国 1号室 呉線・美祢線・芸備線
鉄道少年たちが皆憧れた呉線へ私も御多分に漏れず出掛けた。最初は1967年の夏で伯父の保護者同伴。2回目は翌年の夏で従兄弟と二人であった。罐だけしか写っていない駄作も多いがお許しを乞いたい。石灰石のピストン輸送で名高い美祢線へは1970年の九州遠征のときに訪れた。石灰石列車はデコイチが、下り列車を後退力行、上り列車を順行絶気で次々に牽いてきた。これが逆だったらなーと思った覚えがある。
『小屋浦隧道を飛び出すC59』 C59164 呉線小屋浦 1967.8
昭和20年代後半生まれの撮り鉄は皆が憧れた呉線。有名な小屋浦隧道から飛び出してきた憧れのC59を見てシャッターを押す手が震えた。このC59164は京都鉄道博物館で保存展示されている。
『呉線のシロクニ 』 C6216 呉線広 1967.8
初めてシロクニを見たのはこの撮影旅行での糸崎駅でだった。EF58が解結され、入れ替わってバックでゆっくりと近づいてきたシロクニの小山のような後ろ姿に息を吞んだ。さて、この駅が何駅なのかよく覚えていない。このときの切符に残る途中下車のスタンプから広だろうと思う。
『C59発進』 C59161 呉線広 1967.8
長いテンダーを持つC59が発進する。均整の取れた美しいヘビーパシフィックだ。
『シロクニ呉線を行く』 925列車 C6216 小屋浦 1967.8
瀬戸内海を左手にシロクニが爆走する。機関車にしか目が行ってないことが丸わかりの写真で恥ずかしい。ポジカラーの褪色がひどくデジタル処理でモノクロームにした画像である。
『ラージエンジン・ハドソン』 C625 広島 1967.8
広島駅のホームの先にはシロクニ若番の5号機が待機していた。日の光のもと初めて目の当たりにするその図太いボイラーと小山のような体躯に圧倒されて暫し立ち尽くしていた。
この罐は呉線を含む東海道山陽筋だけで生涯を過ごし、北海道へ渡ることなくこの半年ほど後に火を落とした。
思えば我が国のラージエンジン・ハドソンはこのC62のみ。この5号機なぞ電化の波に呑まれて20年足らずで廃車とは口惜しい。もっと早くラージエンジンポリシーが根付いていれば、この国の蒸機の世界も変わっていたかも知れないと思えてならない今日この頃である。
『芸備線のシゴハチ重連』 824列車 C5849+C58 広島 1967.8
芸備線824列車の先頭にはシゴハチの重連が出発待機していた。ホームの拡張工事中なのか看板類が罐にかかってしまったのが残念だが、前位のC5849は全般検査明けとみえて黒光りしていた。煙室戸下の大きなシンダー除けが広島工場整備機の証だ。この罐とは4年後に敦賀の山間いで再会を果たすことになるのだが、この時の私はそれを知る由もない。
『芸備線の列車交換』 823列車 C58257 1967.8
正確な記録がないがこの駅は井原市駅であろうか。乗車した列車は広島7:59発新見行824列車ということが判明している。この列車は井原市で新見発広島行823列車と行き違うのだ。このお提髪の少女はどこまで行ったんだろう。多分私とあまり変わらない歳だったろう。
『三次のハチロク』 芸備線三次 58622 1967.8
三次では58622が入換にいそしんでいた。後ろに見える家の壁の造りが面白い。この辺り独特のものであろうか。
『兵どもが夢の跡』 D5275,D52115 小郡機関区 1968.8
撮り鉄仲間のいとこから御殿場線へD52の撮影に誘われた。何故か誘いに乗らなかった私は、ここ小郡でその巨体を初めて目の当たりにした。その姿を見て山陽筋でのこの罐の時代の終わりを知った。なお、機関区内は許可を得て撮影している。
『兵どもが夢の跡 その2』 D52115 小郡機関区 1968.8
このデコニはすでにナンバープレートもない。ここには静かな時が流れていた。私には、後年見た「天空の城ラピュタ」のロボット巨人兵とこのデコニの姿が重ね合わさって仕方がない。
『小郡のシゴハチ』 C58158,C5816 小郡機関区 1968.8
小郡には多くのシゴハチがいた。高山線で見慣れた姿に親しみを覚えた。東日本大震災の大津波に流され横転大破した蒸機を覚えておいでだろうか。右のC5816がそれなのだ。この罐はその後会津若松区に転じ1975年1月に廃車となり宮城県志津川町で保存されていた。このときの罐が数奇な運命を辿っていたことを知り感慨深いものがあった。
674列車 D51755 呉線仁方 1970.3.22
呉線というとC62やC59に熱い視線が行ってしまうのだが、貨物や一部の旅客にはデコイチが活躍していた。
621列車 C6237 呉線仁方 1970.3.22
仁方の入り江の向こうをシロクニの牽く長編成の普通列車がするすると進んできた。呉線では朝晩の通勤列車は長編成で大型蒸機C59や超大型蒸機C62が運用に就いていた。やはりこのシロクニに4、5輌の短編成は似合わないと思う。
『力走ヘビーパシフィック』 624列車 C59162 呉線大乗 1970.3.22
ここ大乗はサミットになっているのか上りも下りも力行してくるのが嬉しい。雨は強かったがヘビーパシフィックC59の吹き上げる白煙が目にしみた。
『ヘッドマークも誇らしく』 急行37列車安芸 C6215 呉線大乗 1970.3.22
憧れのシロクニが優等列車「安芸」のヘッドマークを掲げて姿を現した。煙も白かったが、頭の中も真っ白。この急行に軌道検測車マヤ34が連結されて稼働していたと知ったのは、数十年後この写真を改めてスキャンしたときのことである。マヤ検というものは忍者のような存在で、いつどの列車に連結されるのか皆目分からなかったのだ。
(2020.8.7追記、音声公開。視聴にはイヤホン、TVほかの外部スピーカーへの接続を推奨)
『さあ出発』 C59162 糸崎 1970.3.22
強い雨の中、C59162が出発待機していた。ベコベコながら黒光りするテンダーがいまだに目に焼き付いて離れない。
『ヘビーパシフィックC59』 C59162 糸崎 1970.3.22
C59は実に均整の取れた罐だ。戦後型のこのタイプはもう非の打ち所がない美しさだと思う。
糸崎のシゴマル C5088 糸崎 1970.3.22
糸崎でもシゴマルは入換に励んでいた。縁の下の力持ちだ。このモーガルは第2動輪と第3動輪が大きく離れているのが特徴だった。
『厚狭駅0番線にて』 キハユニ157 1970.3.23
美祢線の721Dであろうか。80系湘南電車似の見慣れない気動車だった。ホームは0番線。厚狭駅に0番線があったと知ったのはこのネガをスキャンしたときだった。
『山峡駅の朝』 752列車 D51830 美祢線湯ノ峠 1970.3.23
山峡駅湯ノ峠に降り立つと、少し残る朝靄の中、デコイチが煙を立ち上らせて出発待機していた。
美祢線の石灰石列車 762列車 D51 1970.3.23
厚狭川溪谷沿いの線路にデコイチの牽く石灰石列車が姿を現した。美祢線を訪れたのは有名な石灰石のピストン輸送をカメラに収めるためである。
石灰石ピストン輸送列車 761列車 D51 美祢線湯ノ峠 1970.3.23
石灰ホキ返空列車がデコイチの後退運転でやってきた。朝日に照らされた白煙がまぶしい。ホキも石灰石で真っ白だ。
『朝の通勤列車を牽いて』 522列車 C58338 美祢線湯ノ峠 1970.3.23
旅客列車牽引はシゴハチの受け持ちだ。軽やかなブラストを山峡に響かせてシゴハチがやってきた。
572列車 D51730 美祢線湯ノ峠 1970.3.23
絶気で下ってきた貨物列車は短いが統一された編成だった。撮影時にはそんな印象しか持たなかったが、のちによく見ると貨車はセラのようだ。美祢線は大嶺からの石炭も輸送していたのだった。
664列車 D51520 美祢線松ヶ瀬(信) 1970.3.23
厚狭川橋梁をホキをずらりと連ねてデコイチが駆け下る。絶気とはいえ統一された長大編成を従える大型機関車は迫力があった。
『厚狭川沿いに下る』 666列車 D51920 美祢線湯ノ峠 1970.3.23
見下ろせば厚狭川渓谷は深くはないがたおやかな印象の景観だった。山から下りて来る石灰石列車が描く大きな弧が美しい。
785列車 C58338 美祢線湯ノ峠 1970.3.23
中国支社管内は各地にシゴハチがいた地域である。美祢線というとデコイチによる美祢-宇部港間の石灰石ピストン輸送のイメージが強いが、石灰石列車以外は厚狭区と長門区のシゴハチが担っていた。朝の客522列車を牽いていった長門区のC58338が戻ってきた。この列車は山中峠を越えて長門市まで行くのである。
780列車 C5865 美祢線湯ノ峠 1970.3.23
厚狭区のシゴハチが貨物列車の先頭に立って下ってきた。この列車はトキとセラで組成されており、トキは重安からの石灰石、セラは大嶺からの石炭を積んで厚狭に向かうところだろう。大嶺炭鉱はこの年の7月に閉山となっており美祢線の石炭輸送としては最終期のものだったかも知れない。
(2020.3.6 列車番号および本文追記。)
571列車 D51426 美祢線湯ノ峠 1970.3.23
ここ美祢線では、石灰石輸送列車がデコイチのピストン輸送で次々とやってきて撮影ポイントを移動する暇もないほどだった。この426号機は嬉しいことに大宮の鉄道博物館で蒸気機関車運転シミュレーターとして今もキャブが健在で、手で触れ操作することができる。