Nostalgic東海 2号室 稲沢線
稲沢線は今も頻繁に貨物列車が通過し貨物銀座と呼ばれているが、もともと稲沢と笹島を結ぶ貨物線で多くの蒸機たちも行き交っていた。学校の行き帰りなんかに庄内川橋梁や枇杷島駅へはよく寄ったものだ。稲沢ヤードのあった稲沢駅と稲沢第一機関区もよく訪れた。今では稲沢貨物駅も小さくなったが、それでも往時の雰囲気を残しているのが嬉しい。なお、2号室は随時追加展示・入替予定。
『煙高らかに』 D51849 枇杷島 1968.11.17
庄内川橋梁へは学校の帰りなんかによく行った。長大編成を牽いて築堤を登ってくるデコイチは上りも下りも力行してくる。
『タキを連ねて』254列車 D51369 稲沢 1967.4
デコイチの時代の関西線には石油専用列車はなかったと長らく思い込んでいたが、1967年のフィルムにタキを連ねたデコイチを見つけた。どうやらこの列車は塩浜からの石油専用列車のようである。
稲沢操車場入換風景 9600 1968年頃
稲沢操車場の入換ではキューロクやデコイチがせわしく動き回っていた。
稲沢操車場入換風景その2 9600 1968年頃
稲沢操車場入換風景その3 29699 1970年
稲沢操車場入換風景その4稲沢 9600,C50101 1970.7.12
稲沢操車場旧跨線橋から北方を望めば南北6kmに及ぶ稲沢ヤードや稲沢第一・第二機関区の威容が広がる。これでも見えているのは北側半分ほどだ。左手には稲沢駅のホーム、右端には電機の姿も見える。
眼下で入換中のキューロクは機番の記録がない。ナンバープレートがあまりに煤けていておそらく読み取れなかったんだろう。
稲沢操車場入換風景その5 9600 稲沢 1970.7.12
稲沢操車場旧跨線橋の南200m付近にこの年に新設された新跨線橋から、一齣前の写真とは逆方向の南方を望む。実にこの先2.5kmあたりまで稲沢操車場である。こちら側は今もなお多くの線路が残り当時の面影をとどめている。
『稲沢操車場のキューロク』 29657 1969.3
稲沢のヤードと聞けばキューロクを思い出す。いつヤードを訪れてもキューロクの姿は目にすることができた。
『H級機が行く』EH1020 稲沢 1969.3
早朝から稲沢操車場のキューロクの入換を見ていたらEH10の牽く下り列車がやってきた。列車番号の記録はない。
『稲沢線を行く車輸送列車』 EF654 稲沢 1969.3
稲沢操車場旧跨線橋をくぐってEF65若番がク5000を連ねてやってきた。後方にはすでに新跨線橋も姿を現している。
『コンテナ列車の先頭に立つ』 D51528 枇杷島 1968.11.17
コンテナ列車を牽いてデコイチが枇杷島駅を通過して行く。コンテナ列車は最新鋭の電機が牽いているイメージが強いが稲沢-笹島間はデコイチの仕事だ。
『特急貨の先頭に立って』 1052列車 D51209 枇杷島 1970.3.18
デコイチが庄内川橋梁を渡ってきた。強い北西風が白煙を押し流して編成を覆い隠しているがJNRコンテナを連ねた特急貨物だ。稲一のデコイチにとって一番の晴れ姿である。
『枇杷島駅の離合』2665列車 EF6570 枇杷島 1970.3.18
EF65基本番台70号機が車扱混載貨物を牽いて枇杷島駅を通過していく。枇杷島駅も橋上駅舎化前で見通しがよい。上り本線を通過していく列車は寝台急行「ながさき」である。
『稲沢行枇杷島進入』 272列車 D51179 枇杷島 1970.3.18
枇杷島駅の名古屋方は線形や2階建ての建物は今もさして変わりがない。ただ、線路の数と後方の名駅超高層ビル群の有無が全く違う。
『枇杷島を行き交うデコイチ貨物』272, 2291列車 D51179,155 1970.3.18
枇杷島駅の稲沢方でデコイチ同士が離合する。ここの今の光景は城北線ができて稲沢線・東海道本線をオーバークロスしているが、それ以外の印象はさして変化がない。ただ線路の数が違い、列車の走っている線も違う。(2024.6.7列車番号入替訂正)
『デコイチ重連庄内川築堤を登る』 257列車 D51689+771 枇杷島1969.12.17
庄内川築堤をデコイチ2機が白煙を上げて登って来る。関西本線東部に重連運用はないので前位は回送だ。蒸機の場合は回送といえどもぶら下がりではなく、多少なりとも力行してくるので見かけ上は立派な重連だ。
『枇杷島の夕暮れ』 単568列車 C11 枇杷島 1970.1.9
武豊線の貨物列車は稲一区のC11が運用されていた。稲沢から大府までは単機で通っていた。この道は旧美濃路だと思う。東海道・稲沢線の庄内川橋梁へ行くのによく通った道での一コマ。
『伊吹下ろしの中を』 D51849 枇杷島 1968.11.17
伊吹山が真っ白になると濃尾平野には伊吹山の方から強い寒風が吹き付ける。伊吹おろしだ。近年は少なくなったもののこれが吹くと防寒を怠れば体の熱を芯から奪われる。庄内川橋梁を渡るデコイチの煙も伊吹おろしに押し流されていく。
『ウサギとカメ』 586,8102列車 D51,EF58 枇杷島 1968.11.17
庄内川橋梁では東側に東海道本線、西側に稲沢線が走っている。デコイチの牽く貨物列車をゴハチの牽く臨時急行が一気に抜き去っていく。まるでウサギとカメの競争だ。
『正月早朝からの働き者』 1674列車 C50143 枇杷島 1971.1.3
正月3日の早朝、庄内川橋梁をC50が名古屋港行貨物列車を牽いて渡ってきた。稲沢第一機関区のシゴマルは名古屋港での入換が毎日の日課だ。正月3日も休みなく朝のご出勤だ。
293列車 D51739 枇杷島 1971.3.18
D51が関西本線293列車を牽いて庄内川橋梁を渡っていく。D51はDD51に変わったが橋の情景は今もほとんど変わっておらず、ここが名古屋駅から程近いことに驚かされる。ところでDD51はいつまで見られるのだろうか。
6286列車 D51571 枇杷島 1971.4.5
庄内川を名古屋方面からデコイチの牽く貨物列車が渡ってきた。稲沢線では昔から長大編成の貨物列車が見られるのが醍醐味だ。
『稲沢線のトンボ重連』 枇杷島(名鉄栄生より) D51+C50101 1969.1.1
1969年元日の夕方、名鉄本線栄生駅で駅撮りをしていると見慣れない編成がやってきた。デコイチとシゴマルのトンボ重連だ。正月の変則運用だったのかもしれない。
『集煙装置付デコイチ名古屋駅を行く』 D51125 1969.8.12
名古屋駅の新幹線の隣の稲沢線をデコイチの牽く貨物列車が通り過ぎる。今ここにはあおなみ線ホームができており見通しは利かない。このD51125号機は長野工場式集煙装置を付けており中津川区の所属である。この罐は稲一区に配属されたことはないのでレンタル中だったのだろう。今は船橋市で保存展示されていると聞く。
『新幹線とデコイチ』 267列車 D51209 名古屋 1971.1.6
名古屋駅新幹線の横をデコイチの牽く貨物列車が通り過ぎる。見えている新幹線はむろん0系だ。この13番線からは今でも稲沢線の貨物列車を眺めることができる。ただ、今は煙は消え見通しも利かなくなってしまった。
『エース名古屋駅を行く』 267列車 D512 名古屋 1971.3.14
名古屋駅の新幹線ホームからは今でも目の前を通過する貨物列車を見ることができる。わざわざ新幹線ホームに上がり大阪方にカメラを向けているが、このときエースの2号機が来ることをキャッチしていたのかは、全く記憶がない。
『ハンプのプッシャーたち』 9600,9600 稲沢第一機関区 1967.4
稲一区には操車場の入換やハンプの押し上げで働くキューロクの姿がいつもあった。彼らが吐き出す排煙で稲一区はいつも煙っていたような気がする。なお、機関区内は許可を得て撮影している。
『稲一区のキューロク』 79638 稲沢第一機関区 1967.4
空気溜めが車体中央にドカンと載る79638。元々の位置はどこだったっけ、と思わされるくらいキューロクのバリエーションは多い。
『稲一区のシゴハチ』 C5825 稲沢第一機関区 1968.1
稲沢第一機関区にもシゴハチはいた。小運転や東海道本線各駅の入換に従事していたと思うが私は運転中の姿の記録がない。C58はDD13に追われて各地に配転されて行ったがこの25号機は紀伊田辺区へ転属した。
『稲一区のキューロク その2』 79638 稲沢第一機関区 1969.12
直方区の69638とちょうど100番違いのキューロクが稲一区にいた。この79638がそれである。昼夜を問わぬ入替作業に忙しいのか、全体に煤けた印象だ。入替専用機のため前端梁上に手摺が設けられており、キャブの庇に高山線時代の名残をみることができる。この罐に限らず稲一区のキューロクの汽笛は5室汽笛に取り換えられている。
『庫に憩う』 29657 稲沢第一機関区 1969.12
庫で休息する29657はこの頃稲沢操車場の入換に従事していた。形式入りナンバープレートのみならずローマン体のナンバーが珍しい罐だった。どういう出自の罐がこの美しいローマン体ナンバーとなるのかを私は未だ知らない。
『山親爺の肖像』 29643 稲沢第一機関区 1970.9.27
この頃稲一区のキューロクはかつて高山区に在籍し、その後山を下りて来た山親爺が多かった。この29643もそのうちの1機だが、2休車から復活を果たした変わり種と聞く。空気溜め位置やランボードをはじめ随所に3次形の標準形態をとどめていた罐と思う。隣に見える新鋭のDE11にバトンを渡して、この半年後に天寿を全うした。(2018.4.13,2019.5.24一部修正)
『キューロクとデコイチ』 9600,D51 稲沢第一機関区 1968年
中型貨物機9600と大型貨物機D51が仲良く手をつないでいる。こうして見るとキューロクのボイラー(および火室)の位置の高さがよく分かる。
『稲沢区の転車台』 D51679 稲沢第一機関区 1969.3.1
巨大機関区、稲沢第一機関区の転車台にデコイチが載って方向転換していく。この頃はまだ転車台が2基あったはずなのだが、これが南北どちら側のものか思い出せない。
『美しき稲一のエース』 D512 稲沢第一機関区 1969.3.1
稲一区のエースD512のたたずまい。貨物機とは思えぬ優美さが漂う。罐の左手に立っている奇妙なものはわら人形ならぬ給水塔と思う。1960年代尾張地方の平野部でも氷点下5℃以下の冷え込みは珍しくなく、水道管の凍結はよく耳にした。
『美しき稲一のエース その2』 D512 稲沢第一機関区 1969.3.1
稲沢第一機関区の不動のエースD512。一時期中央西線も走ったがその生涯の多くを稲一で過ごした。関西線名古屋口のさよなら貨物もこの罐が牽いた。このアングルがナメクジと呼ばれた優美なスタイルが最も映えるように思う。
C61に改造されたナメクジ形D51はなかったが、このナメクジ形のハドソンも見てみたかった気がする。(2017.10.6追記)
『撒水』 D512 稲沢第一機関区 1969.3.1
デコイチ2号機が仕業前の整備を受けていた。石炭に掛けているのは驚いたことに、油ではなく水だ。そんなことをすれば石炭が湿ってしまうではないか。ところが、こうすることにより投炭時に炭粉や炭片の飛散防止となり燃焼効率も向上するという。
『異形のナメクジ』 D5172 稲沢第一機関区 1969.3.1
このナメクジ形デコイチは何だか異様な姿だ。デフレクターがないのだ。デフを取り外して稲沢操車場の入換専用機となり廃車になるまでこの姿で活躍した。
『稲一のC12』 C12242 稲沢第一機関区 1969.3.1
稲一区には1969年頃までC12が1機だけ所属していた。この罐の任務は無火の蒸機の入換だ。
『稲一のシゴマル』 C50143 稲沢第一機関区 1969.12
C50という罐は地味な罐だった。8620の後継機だったはずだが、ハチロクに取って代わることなく入換機として働く姿が各地で見られた。稲一区のシゴマルも御多分に漏れず主に名古屋港で入換機として働いていた。
『シゴマルバックビュー』 C50101 1969.3.1
シゴマルが稲沢第一機関区転車台前に佇んでいた。リベット打ちのテンダーが古めかしい。私は長らくこの罐は大正生まれとばかり思い込んでいた。このテンダー然り、曲面のエプロン然り、1次車の化粧煙突然りと大正罐のスタイルそのものなのだから。でも、実際はC53よりも遅い昭和3年生まれだった。
C50は8620の後継機だった筈が、本線を客車を牽いて颯爽と走るところをあまり見たことがない。復元力一定1軸先台車の脱線を起こしやすい欠点のせいなのか、晩年は多くが入換機となった薄幸の罐だった。
『特休車D51823』 D51823 稲沢第一機関区 1969.12
このときD51823は特別休車指定を受けていた。特休車といっても、キャブとテンダーの渡り板の上に枕木が乗せられてはいるもののテンダーには石炭も積まれたままで、いつでも動き出せそうである。
この823号機は量産形には珍しい形式入りナンバープレートを付けていた。今は稲沢市で保存展示されている。
『排煙漂う稲一区転車台』 D51823,468,739 稲沢第一機関区 1969.12
稲沢第一機関区は大機関区だ。全盛期は80輌を越える蒸機を擁していたという。1960年代の終わりでも転車台の周りには多くの罐が待機していた。この転車台は21mを超えるD52やD62もかつて乗っていた代物だ。
このD51823は稲沢市で保存されている。
『居並ぶキューロクたち』 79638,29685,D51369 稲沢第一機関区 1970.7.12
稲一の扇状庫にはデコイチやキューロクたちが憩うていた。大正生まれのキューロクは元来真空制動であったので、最終5次形以外はコンプレッサーや元空気溜めはすべて後付けである。コンプレッサー排気管の位置もまちまちで、細部は罐それぞれに個性があって面白い。
『庫の中から』 D51739,649 稲沢第一機関区 1970.7.12
稲一区の扇状庫内で休息するデコイチたち。左の739号機は煙突が原形だが、右の649号機は集煙装置が付いている。649号機はこの年2月篠ノ井線無煙化で投入されたDD51により長野運転所を追われて転属してきたのだ。庫の外を見やると既にDD51の姿があり、ここは安住の地ではなかった。長工式集煙装置を外すこともなく、これからほぼ1年の後ひっそりと運用離脱し廃車となった。
『有火特休車 D51702』 D51702 稲沢第一機関区 1970.7.12
稲沢第一機関区の片隅にたたずむD51702の仕業札入れには「有火特休車札」が差されてあった。このとき据付ボイラー代用になっていただろうか。ナンバープレートはくすみタービン発電機排気管は消音器の先でカットされ除煙板もない、うらぶれた姿であった。僅かに蒸気をはきながら彼は何を思っていただろう。中央本線や関西本線を走り回っていた華やかな日々だろうか。先立って廃車解体されてしまった僚機たちのことだろうか…。この罐はその後有火特休車の任も解かれ、この年のクリスマスに28年余りの生涯を閉じた。
『中央西線の新鋭電機』 EF64 枇杷島 1969.2
中央西線へ向かう貨物列車を牽いて最新鋭の山岳路線用電機EF64基本番台が庄内川橋梁を渡っていく。ロクヨンは今でも頻繁にここを通るが、すっかりスマートな1000番台に置き換わっている。