Nostalgic東海 8号室 東海道本線中西部
天下の東海道本線だが、私が鉄道に興味を持ち始めたころはすでに全線電化されておりEF58やEH10が主力機となっていた。私が蒸機世代ということもあり、わざわざ東海道本線を撮影に行ったのは1971年が初めてでその後も多くない。この展示室は2018年12月25日に、柏原以西での写真を新展示室であるNostalgic近畿3号室「東海道本線西部」に分割し、柏原より東での写真を展示している。なお、8号室は随時追加展示・入替予定。
『三河湾の朝』 特別急行2列車さくら EF65PF 三河大塚 1980年頃
春霞に島影もおぼろな三河湾を右手に見てEF65PFの牽くブルートレインさくらが東上していく。今ここには大型リゾート施設とリゾートマンションが建ち並び、開けた景観は見られなくなってしまった。
『52列車の先頭に立って』 特別急行貨物52列車 EF6616 新所原 1969.8.22
ヨンサントオ改正後のこの頃、東海道本線上りブルートレインは6本あった。「あさかぜ2号」から「みずほ」までは概ね20分間隔で走っているが「みずほ」と「さくら」の間は50分とやや開いている。この間をブルトレと平行ダイヤで走っていた列車がある。東静岡停車中に「さくら」の先行を許すまでブルトレと伍して走っていたのがワキ10000とコキ10000で組成されたこの特急貨物52列車である。この列車を従えて颯爽と姿を現したのが新鋭国鉄最強機EF66だ。この仕業はEF66をおいて他に務まるカマはない。この日から丸50年。今日もなおEF66基本番台が高速貨物の先頭に立ち続けていることは驚嘆に値する。そしてこの機関車が今も多くの撮り鉄を魅了して止まないことはとても感慨深い。(2019.8.23記)
20系さくらを牽くEF65500P 特別急行2列車 EF65538 新所原 1969.8.22
名古屋近郊在住の私にとって深夜早朝に名古屋を通るブルートレインは高嶺の花だった。二俣線訪問はブルトレの撮影も楽しみの一つだった。EF65P形の牽く20系さくらがジョイント音も高らかに新所原駅を通過して行く。
後方には二俣線直通列車用のオーバークロスが見える。ちょうどあの下でEF58牽引時代の上下特急つばめが離合していたことはすでに伝説となった。(2019.8.23追記)
『豊橋のEF15』 EF15107 豊橋 1969.8.22
42系であろうか、旧型国電がいる豊橋にEF15の姿があった。これはこのとき1機のみ豊橋区に在籍していた107号機である。佐久間ダム建設時には旧型最強貨物機EF15が4機豊橋区に配属され、飯田線でダム建設資材の輸送にあたっていた。1969年頃の天竜川水系の大規模ダムでは新豊根ダムが建設時期なので、このカマはその資材輸送が任務だったかもしれない。
豊橋市在住の来館者S様より、佐久間ダム建設時は二俣線金指-飯田線中部天竜間でC58とEF15のリレーによりセメント輸送を行っていたとご教示いただいた。(2020.9.18追記)
『EF18名古屋通過』 792列車 EF1832 名古屋 1970.3.18
初めてこの写真をスキャンしたとき、2軸先台車の旧形電機が貨物列車を牽いて通るこの駅がどこなのか戸惑った。だが背景に煙突があるのに気付いて戸惑いは解消した。これは日本陶器(現ノリタケカンパニーリミテド)の本社工場のものだ。名高い6本煙突は北東側にあったので、おそらく南西側の東海道本線に近いところのものだろう。すなわち、ここは名古屋駅なのだ。その後、記録をたどってこの列車は浜松機関区のEF18の牽く792列車と判明した。これは稲沢を発って西浜松に向かうところである。私はこの後東海道線の各駅停車に乗ることになる。
『ゴハチの兄弟』 792列車 EF1832 共和 1970.3.18
EF18が長い貨物列車を牽いて共和駅を通過して行く。名古屋駅で捉えたこの列車は電車で追い越して再度見ることができた。1970年名古屋辺りではデッキ付旧形電機は絶滅していたかというと、どっこいそうではない。浜松区のEF18は西浜松-稲沢間の定期仕業を持っていた。791列車を牽いて下ってきて、その日のうちに792列車を牽いて戻っていくのだ。EF18は旧EF58の貨物機版なので2軸先台車など旧EF58とほぼ同等のスタイルだ。
(2020.3.20追記)
『ゴハチの兄弟その2』792列車 EF1832 共和 1970.3.18
後追いで見るEF18は2軸先台車がおよそ貨物機らしからぬ。このスタイルは正に旧車体のEF58そのものだ。旅客機に復帰することを配慮してEF58の32~34号機は空番とされたが、それが埋まることはついぞなかった。手前の空き地は大府駅から名古屋貨物ターミナル駅を結ぶ計画だった南方貨物線の用地である。このときから半世紀を過ぎた今でもこのままである。
『茶釜ゴハチ名駅到着』 EF5810 名古屋 1965年頃
古いネガをスキャンしたら茶釜のゴハチが出てきて驚いた。0系も写っているが東海道新幹線が開通して1年ほどだろうと思う。EF5810には列車無線ジャンパ栓がまだ残っている。優等列車だと思うが記録がなく何なのかよく分からない。
『終着駅定時到着』 急行1206列車阿蘇 EF5881 名古屋 1966年
1966年の名古屋駅11番線。10時12分、急行阿蘇が定時に滑り込んできた。今見れば何もない、何も描かれていないホームに目を引かれる。牽引機のゴハチにはワイパーカバーが付いている。名古屋止まりの『阿蘇』はこの時代、米原区ゴハチの受け持ちなのだ。
『茶釜が通る』 EF6097 名古屋 1966年
入線している153系比叡の横からEF60の牽く上り貨物列車が飛び出してきた。茶色のロクマルは初期の1灯タイプだけではない。基本番台の原色は旧客と同じぶどう色2号で、いわゆる茶釜だった。
名古屋駅の名物といえば今も昔もきしめんである。駅コンコースの地階には銭湯もあった。背後に見えるのは名古屋駅ビルの煙突だが、この写真を見るとその銭湯を思い出す。
1967年の名古屋駅
1967年の名古屋駅。電光掲示板と大時計がトレードマークだった。大時計はリニア鉄道館に復元されている。
『スチームを吹き上げて』 EF6111 名古屋 1968年
EF61が暖房用スチームジェネレーター(SG)の蒸気を吹き上げながら名古屋駅に進入してきた。SG付旅客機の冬の風物詩だ。記録がなくこれが荷46列車と荷48列車のいずれなのかよく分からない。分かるのはヨンサントオ前のこのとき、長々と連なる荷物車の中にパレット車はまだ一つとしてないことだ。
『さくらの先頭に立って』2列車 特別急行さくら EF65512 名古屋 1968.9
名鉄栄生駅の隣の東海道本線をEF65-500Pが「さくら」の先頭に立ってやってきた。この朝は栄生で途中下車したがドン曇りで暗く被写体ブレしてしまった。しかしながら遅刻ギリギリに校門をくぐるのが常だった私はついぞ撮り直しをすることがなかった。
『構内大カーブを行く』 列車番号不明 EF60 名古屋 1970年
現在の名古屋駅は3代目で高架駅である。この頃は地上部の工事に伴い暫定的な配線変更が行われていた。お蔭で駅構内とは思えぬ大カーブが出現していた。
『構内大カーブを行く その2』 列車番号不明 EF60 名古屋 1971.7
現在の名古屋駅は3代目で高架駅である。この頃は地上部の工事に伴い暫定的な配線変更が行われていた。お蔭で駅構内とは思えぬ大カーブが出現していた。
『特急色の貨物機』 EF60-500 枇杷島 1968年頃
1968年頃の初夏の庄内川を渡る貨物列車だが何の記録もない。特急色のこのカマは一見EF65-500のようだが、サイドからでも判る前照灯とモニタールーフの台形などからこれはEF60-500と見て取れる。EF58からブルートレイン牽引の任を受け継いだが、定格速度の低いEF60には酷な任務だった。この頃は既に後継のEF65-500にその座を譲っており、貨物一般機となって身をやつしたわけではなく、すっかり安住の地位を見つけていたことだろう。
『急行桜島を牽いて』 8105列車 EF58114 名古屋 1970.4.26
名古屋駅でEF58の牽く急行桜島と初期型EF60の牽く貨物列車がすれ違う。この頃の東海道山陽筋の急行列車は長大編成だった。ゴハチ114はまだP形改造前で、原形小窓、原形ワイパーの美しい姿だ。
名古屋駅機関車留置線 EF58114,EF582ほか 1972.3
この頃、名古屋駅2番線ホーム神戸方先端には機留線があった。このときはEF58が見えているだけで3機も留め置きされている。どのゴハチもまだ原形小窓の美しい姿だ。
『急行ちくまの機関車交換』 急行7802列車ちくま1号 EF58+EF5843 名古屋 1977年
中央西線の急行ちくまはここ名古屋駅でEF64からEF58にバトンタッチされる。この時代ゴハチは前機回送が付き重連となっていた。バトンタッチの前のシーンは「Nostalgic東海7号室」、重連急行の走行シーンは「特別展示1号室」でご覧になれる。
『庄内川の夕暮れ』 地貨3852列車 EH10 枇杷島 1969.7.15
梅雨明けも近い7月半ばの夕方6時半過ぎ、太陽は庄内川の西に大きく傾く。それは今も昔も変わることはない。庄内川橋梁を渡って行くのはスラントウインドウのEH10だ。ここをH級機が通らなくなって既に久しい。(2022年3月のダイヤ改正でEH200が運用開始され、ここでも約40年ぶりにH級機の姿が復活した。2023.4.7追記)
『新旧王者の出会い』 5051列車 EF66⇔EH1049 枇杷島 1971.7
庄内川橋梁の上で、マンモス機と呼ばれたEH10と新世代ハイパワー機EF66が出会った。さしずめ新旧王者の顔合わせだ。新王者は時速100km/hで走行できるレサ10000を連ねた特急鮮魚貨物列車「とびうお」を従えている。
庄内川を渡るEF60-3次車 EF6072 枇杷島 1971.7
庄内川橋梁を初期型EF60-3次車の72号機が車扱貨物列車を牽いて渡ってきた。EF60もこの3次車までは前照灯が白熱灯1灯だった。
稲沢駅を通過する荷36列車 EF5896 稲沢 1976.8.11
稲沢駅をゴハチの牽く荷物列車が通過して行く。バックには稲沢機関区やヤードの威容が広がっている。ヤードの方には何本もの照明塔が立ち並び、昼夜を問わず操車が行われていたことがうかがえる。
『吹き渡る風の中を』 854列車 EH1045 木曽川 1976.8.11
夏の夕方近く、吹き渡る風の中をEH10がフレートライナーを牽いて木曽川築堤を駆け下りてきた。
『木曽川橋梁を渡って』 464列車 EF6097+DE1116(無動力) 木曽川 1970.9.27
木曽川橋梁を渡ってきた464列車には無動力回送のDE11が付いていた。先頭のEF60-4次車97号機はこれより4年前に名古屋駅で撮影したときは茶釜だったが、このときは青地にクリームマスクの貨物一般色となってすっかり垢抜けていた。
6032列車寝台急行ながさき EF58 大垣 1969.3.2
「ながさき」という列車は九州線内で運行されていた夜行鈍行のほうが多くの方になじみがあるのかも知れない。
1968年から2年ほど東京と長崎間で運行された不定期急行があり、それがこの「ながさき」である。年と時期によって寝台列車だったりハザ主体の列車だったりとカメレオンのような列車だった。この写真を見ると寝台車の間に旧客を挟んでいるように見えるかも知れないが、この旧客のような客車はスハネ30。改造客車で中身は10系客車同等の立派な寝台車だ。
6032列車寝台急行ながさき その2 EF58 大垣 1969.3.2
この「ながさき」の編成は、写真からEF58+オハネ12+スハネ16+スハネ30+スハネ16+スハネ30+スハネ16+スハネ16+オハネ12+スハネ30+オハネ12+スハネ30+オハネフ13だと思われる。
『揖斐川築堤を下る』 EH102 大垣 1969.3.2
揖斐川築堤を長大編成の車扱混載貨物を牽いてEH10が駆け下りる。パンタグラフが車体中央に並んでいるこのカマは試作機4機のうちの1機、2号機だ。
『揖斐川西岸を駆け上がる』荷44列車 EF58144 大垣 1969.3.22
EF58が荷物列車を牽いて揖斐川築堤を登ってきた。この144号機は当時、誘導ステップの形状に特徴があった。遠目のこのアングルでも前端梁側面にぶら下がるように取り付けられているのが判る。
『養老山地を背に』 EH1033 大垣 1969.3.2
曇天に朧げな養老山地を背にしてEH10が車扱混載貨物を牽いて揖斐川築堤を登ってきた。
『揖斐川堤の初夏』 EF6522 穂積 1969.6.1
揖斐川橋梁を上り下りの貨物列車が相次いで渡り行く。この頃の主力機はEF65一般形でさしずめ今のEF210桃太郎といったところで、ありふれたカマだった。堤は特段の手入れもなく成行き任せで野草が伸び放題である。
『五月晴れの揖斐川堤』 EF6551 大垣 1969.6.1
梅雨入り前の気持ち良く晴れ上がった揖斐川堤をEF65一般形の牽く貨物列車が駆け上がる。伊吹山では高山植物が花を咲かせ始めるころだ。
『フレートライナーを牽いて』急貨1074列車 EF618 大垣 1971.12.29
EF61がフレートライナーを牽いて颯爽と大垣駅を通過していく。
EF61いうと晩年の荷物列車を牽いているイメージが強いようだが、ずっと荷物列車ばかり牽いていたわけではない。高速性能を買われて急行貨物運用にも就いていたのだ。
『関ヶ原越えに挑む』 急貨4165列車 EH1015 新垂井 1970.9.15
東海道本線も新垂井の辺りは単線に見える。ここは関ヶ原越えの勾配緩和線だ。それでも6kmにも及ぶ10‰勾配が連続する。この区間を1200t貨物列車を速度を落とさず走らせるために開発されたのがEH10だ。EH10が長大編成を牽いてモーター音も重々しくやってきた。この15号機は高速試験機でその当時はぶどう色の塗色にオレンジ色の帯をまとっていたという。
『EF65それともEF60?』161列車 EF60110 新垂井 1970.9.15
関ヶ原越えの勾配緩和線をEF60110がやってきた。EF605次車はEF651次車と形式ナンバーは5つも離れているのにスタイルは瓜二つである。ナンバーが読み取れない場合サイドからモニタールーフの形状を確認しない限り見分けがつかない。
『関ヶ原越えの勾配緩和線を行く 1970』 急貨4169列車 EF6547 新垂井 1970.9.15
モーターの唸りも高らかにEF65一般型1次車の47号機が関ヶ原越えの勾配緩和線をやってきた。この辺り東海道本線とは思えぬような長閑で人けもなさそうなところだが、この頃はこの西数百mのところに新垂井駅があり歩いて来ることができた。
こことほぼ同じ地点での2018年の写真は「Recent近年1号室」の「関ヶ原越えの勾配緩和線を行く2018」でご覧になれる。(2019.8.30記)
『デコイチ東海道本線を行く 』 9433列車味覚の近江路めぐり号 D51903 新垂井 1970.9.15
関ヶ原越えの勾配緩和線をデコイチが客車列車を牽いて駆け上ってきた。
ある博物館で「東海道本線名古屋周辺で蒸気機関車が最後に客車列車を牽引したのは1962年5月の名古屋-岐阜間C57139牽引のお召列車である」というような解説を読んだことがあるが、実際はそうではない。
ちょうど47年前の今日から10月10日にかけて6回ほど、D51903が名古屋-米原間のイベント列車を牽いている。(2017.9.15記,2017.10.20一部修正)
『デコイチ東海道本線を行く その3』 9433列車味覚の近江路めぐり号 D51903 木曽川 1970.9.27
木曽川の築堤をデコイチの牽く客車列車がやってきた。東海道本線だけにC57を見たかったが1年前に名古屋区からシゴナナは姿を消しており最早叶わぬ話だった。D51はD52登場前はこの区間を走っていた筈だが、よもや客車列車を牽引することになろうとは思っていなかったことだろう。
(2020.9.18再展示)
『デコイチ東海道本線を行く その4』 9433列車味覚の近江路めぐり号 D51903 新垂井 1970.10.4
靄がかかり昼間というのに薄暗い関ヶ原越えの勾配緩和線をデコイチが客車列車を牽いて登ってきた。かつてはD51もD52もそしてD62も通ったこの道をD51は何十年ぶりに走ったのだろう。ヘッドマークもない出で立ちはかえって往時を偲ばせてくれた。農家の人たちも仕事の手を止めて懐かしそうに見入っていた。ここは往時とあまり変わらぬ風景で、今も撮り鉄たちに人気のスポットである。
(2020.9.25再展示)
『デコイチ東海道本線を行く その5』 9433列車味覚の近江路めぐり号 新垂井 1970.10.4
新垂井辺りの東海道本線下り線は勾配緩和のため上り線とは大きく離れており、まるで単線区間のようだ。言われなければここが東海道本線とは気付かぬような長閑なところだ。
この日も旧客を連ねてやってきたデコイチは稲一区の準戦時形903号機だった。この罐には申し訳ない話だが、「またカマボコか」と同行の鉄仲間と愚痴をこぼした。結局6回の運転日すべてを903号機が担当した。すでに東海道本線で蒸機を運転できる乗務員も限られていたであろうから、乗務員からの指名があったのかも知れない。この罐はその後中津川区に転属し、中央西線全線電化まで活躍した。(2020.9.25再展示)