Nostalgic東海 1号室 高山本線・太多線・神岡線
高山本線は撮り鉄としての私の原点である。無煙化は結構早く1969年に完了した。 C58はまだ駆け出しの頃の撮影でろくな写真がないが、ご笑覧賜りたい。無煙化完了でC58なき後、飛騨川や神通川沿いを行くDD51、DE10や気動車をカメラに収めたが、C58ロスから逃れられずそれっきりとなってしまった。
『声の主』 C58108 高山本線鵜沼 1966.9
木曽川の上を通って聞こえてくる、遙かなる汽笛の主は高山本線を行くC58であった。
108号機はローカル列車を牽き鵜沼駅にしずしずと入ってきた。機関助士の手にはタブレット。1両目の客車はスハニ31であろうか。ダブルルーフ、リベット打ちの古めかしい姿が懐かしい。
『高山線のプレーリー』 C58368 高山本線鵜沼 1965年頃
古いネガで何の記録もない。スキャンしてみれば逆光の中、罐ばかり大きく写った列車写真が出てきた。架線が見えるので鵜沼を発車した下り客車列車と分かる。これは紛れもなく少年の頃から慣れ親しんだ高山線のシゴハチの勇姿なのである。
『優等列車の先頭に立つ』 C58364 高山本線鵜沼 1965年頃
鵜沼駅に停車中の客車列車だ。この頃は撮影記録をつけていない。それでも種別サボが入っていることから、これはこの頃唯一客車列車で残っていた臨時準急「くろゆり」であろうことが推察できる。
鵜沼駅名板 1969.1.2
鵜沼駅の駅名板。いつ立てられたものであろうか。塗装は剥げ、傾きかかっていた昭和44年の想い出の姿である。
『高山本線を行くダブルルーフ』 高山本線長森 C58 1965年頃
高山本線長森駅の東に流れる境川築堤を駆けあがる下り列車だ。古い写真で撮影記録もないのにカラーであるのに我ながら驚く。おそらく好奇心のおもむくまま高価なカラーフィルムを試したものと思う。
先頭の客車はスハユ30であろうか。戦前からの生き残りのダブルルーフだが、室内の二重になった天井にぼんやりと光るタングステンランプの温もりがいとおしい。
タブレット投げ込み 鵜沼駅 1965年頃
通過列車のタブレット授受は当然通過しながら行われる。運転助士は前区間のタブレットをタブレット受器に投げ込む。
タブレット受取り 鵜沼駅 1966.9
次区間のタブレットをタブレット授器から受け取る。まれに取り損なうことがあると列車は緊急停止。助士はそれを拾いに走るという話を元機関士から聞いたことがある。
1966年の高山駅
初めて一人で訪れた1966年の高山駅。今見ると何だか時間がゆっくり流れているように思える。
(2020.6.19撮影年訂正)
『高山駅の印象』 C58389 1966年
初めての一人での撮影旅行は高山訪問だった。適当に撮っていることが丸わかりの写真で恥ずかしい。それでも、汽車を待っている母子やホームを闊歩する学生やラッセル車が写り込んでいて今見ると楽しい。
(2020.6.19撮影年訂正)
『出世列車』 急行たかやま 名鉄8000系 高山 1966年
高山駅で出発待機中の名鉄神宮前行急行「たかやま」。私の地元の名鉄犬山線を通って高山線に乗り入れるこの列車は少年ながらに誇らしかった。1965年8月の登場時は準急だったが、翌年春のダイヤ改正で1年足らずで急行に格上げとなり、さらには運転区間延伸により愛称が「北アルプス」となり最終的には特急になったという出世列車である。隣に見える隙間だらけの貨車は家畜車である。
『旅客シゴハチ貨物もシゴハチ』 C58318,C58108 鵜沼 1966年頃
鵜沼駅でシゴハチの牽く貨物列車をシゴハチの牽く旅客列車が追い抜く。高山線は客貨ともほとんどC58であった。D51も高山区に数機いて鵜沼駅で遠くから見かけた覚えがあるが、記録していない。
鵜沼駅で出発待機するC58 1966年頃
貨物列車の先頭に立つシゴハチ。鵜沼駅でよく目にした光景だ。この写真でここに木材の集積所があっことに今更ながら気付かされた。
『鈍行列車鵜沼到着』 833列車 C58116 1967年頃
古いポジフィルムで褪色が激しくどうデジタル補正してもこれ以上色が出てこない。それでも、このC58116が赤プレートでなかったことははっきりとわかる。リヤカーに山積みされた小荷物や行商のおばあさんが品物を背負って歩く姿も当時は見慣れた光景だった。
『美濃太田駅風景』 1965年頃
1965年頃の美濃太田駅風景。駅に隣接して客貨車区と機関区があったようだ。C58、キハ35、キハ58といった当時の高山線の主力車輛が勢揃いである。
『美濃太田区の扇状庫 1965』美濃太田機関区 1965年頃
美濃太田区の扇状庫にはC58とC11が収まっていた。一番左だけC11で後はC58だ。C58の機番は左から326,元お召機250,318,195である。いずれも赤プレートなので美濃太田区の罐である。なお、機関区内は許可を得て撮影している。
『美濃太田区の転車台』 C58200 1965年頃
シゴハチの切り番200号機。デフが変形なのだがこのカットではよく分からない。なお、機関区内は許可を得て撮影している。
『変形デフ機C58200』 美濃太田機関区 1965年頃
C58200の変形デフがよく分かる。この個性的な形のデフをほかに付けている罐を私は見たことがない。
『美濃太田のC11』 C11211 美濃太田機関区 1965年頃
美濃太田区のC11は越美南線の運用に就いていた。越美南線は長良川沿いの風光明媚な路線だが、私はC11の時代ついぞ訪れることがなかった。
『出区前』 C58364[美] 美濃太田機関区 1967年
美濃太田機関区に佇むC58364。テンダーに石炭が山盛りで出区前のひとときである。機関士は罐の周りに上にと点検に余念がない。この罐は1969年1月高山本線岐阜口のさよなら列車牽引機である。なお、機関区内は許可を得て撮影している。
『美濃太田区の扇状庫』 美濃太田機関区 1967年頃
1967年頃の美濃太田機関区の扇状庫。この頃はまだDD51もDE10も配置されておらず庫内はC58とC11の天下だった。
『冬の太多線風景』 463列車 C58318 姫 1969.1.2
太多線は美濃太田と多治見を結ぶ比較的緩勾配のローカル線だ。この時代、正月といえども列車は休みなく走っていた。
『稲架がけのある鉄道風景』 C5869 高山本線坂祝 1968.11.17
高山本線坂祝辺りは水田と桑畑が混在するのどかなところだ。稲架がけも汽車もありふれた日常的な光景だった。
『桑畑の向こうを汽車が行く』 C58142 高山本線坂祝 1968.11.17
西に大きく傾いた太陽が桑の木を浮かび上がらせ、その向こうを汽車が通り過ぎる。枯れて残った桑の葉が秋の深まりを告げていた。
『C58の後釜』 877列車 DE10523 高山本線坂祝 1969.6
高山本線の岐阜口ではこの年の1月に蒸機は姿を消した。無煙化なった後一度坂祝の地を訪れたが、赤い機関車は黒煙を吐くこともなく軽やかに走り去った。
再訪は一度と思い込んでいたが、9月の写真が発見されたのでどうやら二度だったようである。(2019.9.13追記)
705D急行のりくら5号 キハ55 高山本線坂祝 1969.6
準急型気動車キハ55編成の急行のりくらがエンジン音も力強くやってきた。このアングルでC58を撮ればよかったと思ったが後の祭りだった。
『紫煙を漂わせて』 877列車 DE10526 高山本線坂祝 1969.9.11
鵜沼-坂祝間にあるトンネルは、そこから白煙を上げて飛び出してくるC58の写真を鉄道誌で見て以来私の心に刻み込まれていた。C58の走っていた間になぜ訪れなかったのか、今となっては後悔のしようもないがシゴハチ亡きあと2回ほど足を運んだ。やってきたのは旋回窓のずらりと並んだファニーフェイスのDE10だ。蒸機とは違う薄い紫煙を漂わせながらしずしずと通り過ぎて行った。(2019.9.13記)
『時雨降るころ』862列車 DE10149 高山本線鵜沼 1970.12.13
1970年初冬、冬枯れの野辺をやってきた862列車の先頭にすでにシゴハチの姿はなく、とって代わったDE10の朱色がやけに目に沁みた。
『猪谷の山腹を行く』 861列車 DD51 高山本線猪谷 1974.7.23
大学2年のとき先輩の車で富山から南下し高山線、神岡線の列車を撮り歩いた。神通川上流の猪谷辺りは列車の窓から見下ろしてもぞっとするほど谷が深い。DD51の牽く貨物列車も谷にへばりつくように走ってきた。
『猪谷の山腹を行く その2』 861列車 DD51 高山本線猪谷 1974.7.23
飛越国境辺りの山腹を縫うように走る高山本線には多彩な橋梁が架けられている。DD51の牽く貨物列車もデッキトラス橋、ガーダー橋そしてアーチ橋を次々と渡ってやってきた。
『飛越国境を行く』 845D キハ 高山本線猪谷 1974.7.23
この線路は本当に本線なのかと思えるような飛越国境の山懐を2連のキハがゆっくりと駆け下っていった。
『谷深き神岡線を行く』 625D 神岡線神岡口 1974.7.23
神岡は今は素粒子観測装置スーパーカミオカンデで有名になったが、この装置は神岡鉱山の廃坑内にあるように元々は鉱山の町だ。神岡線は亜鉛鉱石の輸送を目的としていた。この辺りは通りがかったキハが小さく見える谷深いところだった。
『高原川を渡る』 625D 神岡線神岡口 1974.7.23
『新緑の豪雪地帯を行く』 急行のりくら キハ58 高山本線打保 1974.4.25
打保辺りの高山本線は宮川沿いを走っている。4月下旬、富山県境に近い豪雪地帯の雪解けも進み満々たる水量の岸辺をキハ58の急行のりくらが快走してきた。
701D急行のりくら1号 キハ58 高山本線渚 1974.7.23
渚の橋梁を名古屋発富山行急行のりくら1号が渡ってきた。このキハ58系は非電化の幹線・亜幹線急行形気動車として全国至る所で見かけたものだ。今や急行列車自体がJRから消滅してしまい、新幹線も高速道路網も未整備だったこの頃が懐かしく思い起こされる。
『飛騨川沿いを駆け抜ける』1611D急行北アルプス 名鉄8000系 高山本線渚 1974.7.23
富山地鉄立山発名鉄神宮前行「急行北アルプス」がガーダー橋からガーダー橋へと颯爽と駆け抜ける。
この名鉄8000系は国鉄82系に一見よく似ているが、名鉄線内の狭小な車両限界に対応するため車体幅が狭く、独特のお多福顔であった。
『清流飛騨川を渡る』 1897列車 DD51 高山本線少ヶ野(信) 1974.7.23
高山本線は美濃太田を過ぎると何度も鉄橋を渡り、清流飛騨川を右に見て左に見て北上していく。レンガ積みの美しいガーダー橋をDD51がエンジン音も軽やかに渡って行った。
『飛騨川を車窓に見て』 6715Dのりくら3号 キハ91系 高山本線福木(信) 1974.7.23
高山本線は飛騨川に沿って走る風光明媚な路線だ。新鋭キハ91系の急行のりくらが素晴らしいピッチで駆け抜けて行った。
『飛騨川沿いに』 830D キハ20系 福木(信) 1974.7.23
飛騨川沿いをキハがのんびりと駆けていく。この頃の高山本線ではすでに客車列車は姿を消し、ローカル列車もキハに置き換えられていた。
『北アルプス快走』1611D急行北アルプス 名鉄8000系 高山本線福木(信) 1974.7.23
飛騨川のダム湖沿いを名鉄乗り入れ急行「北アルプス」が快走してきた。
『飛騨路の旅』 703D急行のりくら4号 キハ55 高山本線焼石 1974.7.23
飛騨川には多くのダムがあり、列車で行く飛騨路の旅は変化に富み外を見飽きることがない。私も学生時代にこの急行のりくらには何度も乗り車窓の風景を楽しんだ。